東京地方裁判所 昭和23年(ワ)4354号・昭25年(ワ)2428号 判決
原告 鎌田哲 外六名
被告 東京都
一、主 文
被告は、原告哲、同時子、同愛子、同壽子に対し各金十三万八千百七十五円八十七銭、原告マサ子に対し、金二十六万六千三百五十一円七十四銭、原告七五郎、同はるのに対し各金三万円及びそれぞれこれに対する昭和二十三年五月二十八日から完済に至るまで年五分の割合による金員を支拂うべし。
原告等のその余の請求は、これを棄却する。
訴訟費用は被告の負担とする。
この判決は、原告哲、同時子、同愛子、同壽子において各金三万円、原告マサ子において金六万円、原告七五郎、同はるのにおいて各金五千円の担保を供するときは、その勝訴部分に限り、仮にこれを執行することができる。
二、事 実
原告等訴訟代理人は、「被告は、原告哲、同時子、同愛子、同壽子に対し各金二十二万五千六百七十三円、原告マサ子に対し金三十五万千三百四十七円、原告七五郎、同はるのに対し各金十万円及びそれぞれこれに対する昭和二十三年五月二十八日から完済に至るまで年五分の割合による金員を支拂うべし。訴訟費用は、被告の負担とする。」との判決並びに仮執行の宣言を求め、請求の原因として、次のとおり述べた。
原告鎌田哲は亡鎌田万の長男、原告鎌田時子は右万の長女、原告鎌田愛子は万の二女、原告鎌田壽子は万の三女、原告鎌田マサ子は万の妻、原告鎌田七五郎は万の父、原告鎌田はるのは万の母であり、万(大正九年九月十九日生)は父母妻子とともに原告等肩書地に居住し、家業たる農業に從事する傍ら、馬車曳業を営んでいた。
万は、かねて姉小倉ふみのから、同人が宮城縣栗原郡曾根村に疎開していた当時受けた配給米の残りを東京都葛飾区本田澁江町八十六番地小倉清(ふみのの嫁ぎ先)方え届けることを依頼されていたので、これを小倉方へ届けることを思い立ち、右配給米七、八升をリツクサツクとボストンバツクに入れて携帶し、昭和二十三年五月二十日午前十時頃仙台駅発の列車で上京の途についた当時は田植時の農繁期であり、約一町歩の田を耕作していた万の家には、万の外には女子、老幼者がいるだけであつたので、働手の中心である万としては、原告七五郎等にも言い含められて、できるだけ早く所用を済ませて帰郷するつもりになつていたのであつた。
上京の途中万は郡山駅で一斉取締にあい、携帶の米五、六升を領置されるということがおこつたが、とにかく同日午後十時頃には上野駅に到着した。下車後、万はかねて一度小倉清方を訪ねたときの記憶をたどつて、その所在を探し、諸所を歩き廻つたが、すでに夜おそくなつていたので、目的を達することができなかつた。やむなく小倉方に行くことはやめて、浅草方面で宿をとろうとも考えてみたが、どの家も戸を閉めていたので万は、同日午後十二時頃、東京都台東区壽町三丁目一番地樋口イトに事情を述べて、一夜の宿を許してもらつた。
翌二十一日万は、午前五時頃、上野駅発の列車で帰郷しようと考えて、午前四時三十分(夏時間)頃右イト方を立ち出で、同区壽町交又点附近(同町三丁目五番地先)に差しかかつたとき、浅草警察署勤務警視廳巡査浅海政男の巡回にあい、不審尋問を受けた。
万が同巡査の質問に対し逐一答え、携帶していたボストンバツグを開き、かつ身体檢査にも應じたのに、同巡査は更に巡査派出所へ同行することを要求した。万は、郷里が田植で忙しいこと、上野駅発の列車の時間が午前五時十分でこれに乘るため時間に余裕のないこと、同人が何等怪しい者でないことを述べて同行をことわつたところ、同巡査はやにわに万の胸ぐらをつかんで引き廻し、次いで万を左手でとらえ、右手で携帶の拳銃を取り出して万の腹部に擬し、「これだぞ」といいながら、いきなり発射した。そのために万は左腹部に銃傷を受け同区下谷中根岸二十四番地下谷病院に入院加療を受けたのち、同月二十七日午後五時五十五分腸穿孔に基ずく腹膜炎によつて死亡した。
元來万は性質温良で、容貌に兇惡なところなく、又当時兇器を所持していたわけでなく、不審をもたれる点は全くなく、況んや射殺される理由は全然なかつたのであるから、本件事故は浅海巡査の故意又は過失による不法な行爲に基ずくものである。そして、右浅海巡査の行爲は、警察法に所謂特別区の存する区域における自治体警察の公権力の行使として、職務上行われたものであり、被告は、その自治体警察を維持し、その費用を負担する公共団体であるから、国家賠償法に基ずき、右浅海巡査の行爲により万及び原告等が蒙つた損害を賠償すべき義務がある。
万は右死亡当時年齢満二十七年八月余で普通の健康体の男子であつたら、本件事故がなかつたならば向後なお三十年間は生存活動することができたはずである。同人は、死亡直前農業及び馬車曳業により少くとも一カ月金六千円、一カ年七万二千円の收入をもつており、生活費として要した、一カ月金三千円、一カ年金三万六千円を差引き、その純收益は少くとも一カ年金三万六千円であるから、右三十年間に得べかりし純收益は合計金百八万円である。これを本件事故により失い、同額の損害を蒙つたから、これが賠償として右金額から「ホフマン」式計算法により年五分の中間利息を控除した金七十五万四千四十三円を一時に請求することができ、原告哲、同時子、同愛子、同壽子(昭和二十四年一月二十九日生で万死亡当時は胎兒である。)同マサ子は万の死亡により相続し、右損害賠償請求権を承継取得し、各その相続分に應じ原告哲、同時子、同愛子、同壽子において各金十二万五千六百七十三円、原告マサ子において金二十五万千三百四十七円の各損害賠償債権をもつている。
次に、万死亡当時万の長男原告哲は四歳、長女原告時子は三歳、二女原告愛子は一歳、三女原告壽子は胎兒、妻原告マサ子は二十四歳、父原告七五郎は六十二歳、母原告はるのは五十六歳であつて、万は原告家の柱石ともなつていたのであるところ、(原告家には万の外原告七五郎の生存男子はいなかつた。)万の死亡により原告等はそれぞれ精神上甚大な苦痛を蒙り又は將來蒙ることとなつたので、これが慰藉料として金十万円を請求する。
よつて、被告に対し、原告哲、同時子、同愛子、同壽子は各合計金二十二万五千六百七十三円、原告マサ子は合計金三十五万千三百四十七円、原告七五郎、同はるのは各金十万円及びそれぞれこれに対する万死亡の翌日である昭和二十三年五月二十八日から完済に至るまで民法所定の年五分の割合の遅延損害金の支拂を求める。かように述べた。<立証省略>
被告訴訟代理人は、「原告等の請求を棄却する」との判決を求め、答弁として次のとおり述べた。
昭和二十三年五月二十一日午前四時三十分(夏時間)頃訴外鎌田万が東京都台東区壽町交叉点附近(同町三丁目五番地先)に差しかかつたとき、浅草警察署勤務警視廳巡査浅海政男の巡回にあい、不審尋問を受けたこと、その際同巡査が万に対し巡査派出所へ同行することを求め、万がこれをことわつたこと、同巡査が右手に取出した拳銃によつて万が左腹部に銃傷を受け、同区下谷中根岸二十四番地下谷病院に入院加療を受けたが、同月二十七日午後五時五十五分死亡したこと、万が当時兇器を所持していなかつたこと、右浅海巡査が万に対してした行爲が警察法に所謂特別区の存する区域における自治体警察の公権力の行使として職務上行われたものであること、被告がその自治体警察を維持し、その費用を負担する公共団体であることは、いづれも認めるが、その余の原告等主張事実はすべてこれを爭う。
そもそも本件事故の発生した浅草警察署管内は、浅草公園を中心として多数の商店、露店、娯樂施設があつて犯罪と密接な関係をもち、加うるに、当時犯罪の巣と称せられた上野公園、上野駅地下道が近接している関係もあり、不良徒輩の出入がおびただしく警視廳管下屈指の犯罪発生地である。同署管内でも殊に本件事故の発生した田原町巡査派出所管内の壽町附近は、犯罪発生件数多く、從つて同派出所勤務の巡査は、犯罪の予防、犯人の檢挙に格段の努力を拂うことを要請され、受持区内の警邏、不審尋問等を励行していた。
本件事故発生当時浅海巡査は午前四時(夏時間)警邏の任務に就き、午前四時三十分壽町三丁目四番地先の露地から大通りに出たとき、大通り向側の同町三丁目五番地先を同町交叉点に向つて通行中の万を発見した。しかしそのときは辺りはなお薄暗く、街燈は未だ整備されておらず、同巡査には万の姿は判然とはしなかつた。右時刻は不審者の最も多く徘徊する時刻であり、場所柄をも思い合せて、同巡査は不審尋問をしようと考え、大通りを横断して歩道に近接した車道上で万の後方に出て、約一間半の距離に接近したとき、「もしもし」と呼びかけた。万が立止つて振り返つたので、同巡査は「何処へ行くか」と尋ねると、その返事は「仙台へ行く」というのであつたので、更に「何処から來たか」と問うと、「仙台から來た」と答えた。同巡査は不可解にたえず、「昨夜は何処で宿つたか」と尋ねたところ、万の答は「その辺に宿つた」という極めてあいまいなものであつた。この間同巡査が万の容貌、服裝等を観察すると、油気のない頭髪がもさもさとしており、頬骨がとがり頬がこけた顔でカーキ色の作業衣風の上衣とズボンを着けて、汚ごれた白のズツク靴をはき、右手にボストンバツグを携え、一見不審者にあり勝ちな人相、着衣、持物であり、その態度や言葉にもぶつきらぼうで粗暴な調子があつたので同巡査は愈々不審に思い、所持品を調べてみようとしても、ボストンバツグを指し、「その中には何が入つているか」と尋ねたところ、「衣類が入れてある」というので、「どんな衣類か」と問うと「シヤツと着物だ」と答えたから、「見せてもらいたい」とボストンバツグの開披を要求したが、万はこれを拒んだ。ここにおいて同巡査は、万に対し窃盗犯人ではないかという疑をいだき、万に田原町巡査派出所へ同行を求めた。万は一旦は同行に應ずる様子で車道から歩道に上り同派出所の方向へ歩き始めたので、同巡査は万から約一間を距ててあとにつづき、約十四、五間進行し、壽町交叉点附近に達したとき、万は突如傍らの板塀にもたれかかつて、同行を拒むに至つた。そして同巡査が重ねて同行を求めているとき万はつと身を起し身構えたかに見えた。同巡査は、未だ万の身体捜檢をしていなかつたので、万がどんな武器を持つているか不明なのに不安を感じ、かつ万が抵抗し、逃走を企て兼ねまじい気配を示したことにも不安を感じたので、いざという場合の用意に携帶していた十四年式拳銃を右手で後のバンドから外して持つた。しかしその際安全裝置はかかつたままで銃口は斜め後の下方に向いていた。このとき万は右手に持つていたボストンバツクを投げ棄て、同巡査に組付いて來て、(このとき同巡査の右顔面が強打された)拳銃を持つた同巡査の右手を捉え、次で拳銃の上方から掴んでもぎ取ろうとした。そして両者はもみ合いながら同所から約四間許り南方(從來の進行方向とは逆の方向)へ移動したとき、拳銃の安全裝置が外れて盲発し、その彈丸が万の腹部に命中し、万はその場に倒れたのである。
本件事故発生までの情況は、右の通りであるから、万の死亡に際して浅海巡査には故意又は過失はなく、從つて、被告に損害賠償の責はない。仮りに浅海巡査に過失があり、被告に損害賠償責任があるとしても、被害者万にも過失があるから被告は過失相殺を主張する。
なお浅草警察署においては、万の死亡までの間における治療費その他の諸経費金二万千七百五十一円を支拂つたほか、新盆に当り供物代として金五千円を遺族に贈つたことを、事情としてつけ加える。かように述べた。<立証省略>
三、理 由
昭和二十三年五月二十一日午前四時三十分(夏時間)頃訴外鎌田万が東京都台東区壽町交叉点附近(同町三丁目五番地先)に差しかゝつたとき、浅草警察署勤務警視廳巡査浅海政男の巡回にあい、不審尋問を受けたこと、その際同巡査が万に対し巡査派出所へ同行することを求め、万がこれをことわつたこと、同巡査が右手にした拳銃によつて万が左腹部に銃傷を受け、同区下谷中根岸二十四番地下谷病院に入院加療を受けたが、同月二十七日午後五時五十五分死亡したことは、当事者間に爭いがない。
そして、甲第一号証、同第三号証、同第七号証、同第八号証(眞正にできたことに爭いがない)と証人佐藤ちな子、同樋口イト、同浅海政男、(第一、二回)同吹山敬治の各証言、原告鎌田はるの本人(第一、二回)の供述並びに檢証の結果を合せ考えると、次のとおり認めることができる。
万(大正九年九月十九日生、本件事故のあつた昭和二十三年五月当時は年齢満二十七年八月余)は、その父母妻子とともに、原告等肩書地に居住し家業たる農業に從事する傍ら馬車曳業を営んでいたところ、かねて姉小倉ふみのから、同人が万の居村に疎開していた当時受けた配給米の残りを、東京都葛飾区内のふみのの嫁ぎ先へ届けて欲しいと依頼されていたので、これを小倉方へ届けることを思い立ち、昭和二十三年五月十九日米七、八升をリツクサツクとボストンバツグに入れこれを携帶して家を出て、翌二十日午前十時頃の仙台駅発の列車で上京の途についた。出発に際し、万の母はるのは特に万に対し、明日から田植が始まるから一晩泊つたらすぐ帰つてくるように注意するとともに、浅草に廻つて釘を買つてくるようにいいつけた。そして、万は途中郡山駅で一斉取締にあい、携帶の米の大半を領置されたが、定刻よりおくれて同日午後十時頃には、とにかく上野駅に到着した。下車後、万は、かつて一度小倉方を訪ねたときの記憶をたどつて小倉方の所在を思い出すことにつとめたが、どうしても思い出すことができず、それに夜おそくもなつてきたので、小倉方へ行くことは断念し、母にいいつけられた釘を買い、傍々宿をとろうと考えて浅草に廻つた。その時は既に夜も更け人家は多く門戸を閉していたので、幸いまだ起きていた台東区壽町三丁目一番地飲食店樋口イト方を訪ね、事情を述べて、一夜の宿を願つた。イトは、万が田舎者らしい様子をしており、怪しい者ともおもえなかつたので、願いをいれて宿を貸した。翌二十一日、万は早朝上野駅発の列車で帰郷しようと考えて、午前四時三十分(夏時間)頃イト方を立ち出で、同区壽町三丁目五番地先を同町交叉点に向つて進んで行つたとき、浅草警察署勤務警視廳巡査浅海政男の巡回にあつたそのときはまだ薄暗く、附近には街燈もなかつた。万はカーキ色の軍隊服を着用し、白のズツク靴をはき、右手にボストンバツグ一個を携帶し、そして頭髪を伸していた。万の姿をみとめた同巡査は、うしろから万に近づき約一間半の辺で、「もしもし」と呼びかけたところ、万は振り返つて立止つた。そして、「何処に行くか」「仙台に行く」「何処から來たか」「仙台から來た」「昨夜は何処に泊つたか」「その辺に泊つた」という問答が両者の間に重ねられた。同巡査は不審に思い、万の携帶品を調べてみようと考えて、ボストンバツグを指し、「持物は何か」と尋ねたところ、万は「衣類である」と答えた。同巡査は更に「衣類は何か」と問うと、万は「着物とシヤツである」と答えた。これを聞いた同巡査は、取調のため万に田原町巡査派出所への同行を求めたところ、万は行くとも行かないともいわずに、壽町交叉点の方に向つて歩き始めた。同巡査は万から約一間半離れてあとにつづき同交叉点附近に達したとき、万は傍らの板塀に寄り掛り、「私は何も惡いことをしたのではないからここで調べてくれ」といつたが、同巡査はききいれず、なお同行を求めるので、万は「汽車に乗り遅れるから」といつて同行を拒んだ。そこで同巡査は「どうしても行かないか」といいながら右手で携帶の十四年式拳銃を取り出し左手で万を引張つて行こうとした。万は、同巡査が携帶の拳銃を取り出したことを見ても屈せず、飽くまで同行を拒んで、同巡査ともみ合い、同巡査の手から拳銃を取りはなそうとして爭つた。かくて両者が格闘しているうちに、もみ合う力に押されて、浅海巡査が持つていた拳銃が突如発射し、万の左腹部に命中し、万はこれが原因となつて、腸穿孔と腹膜炎とを起し、同月二十七日死亡するに至つた。
かように認めることができる。証人佐藤ちな子、同三浦時男の各証言、原告鎌田はるの本人の供述(第一、二回)中右認定に反する部分は信用することができない。又証人浅海政男の証言(第一、二回)中、右の認定に反し被告の主張に合う部分は、やはり信用することができない。ほかに以上の認定に反し被告の主張に合うような証拠はない。
そして本件事故発生当時万が兇器を持つていなかつたことは、当事者間に爭いがない。
万が浅海巡査の要求に対し巡査派出所への同行を拒んだことは前認定の通りである。しかし万が犯罪を行い終つてから間がないと、明かに認めることのできる証拠はなく、又そもそも同人が犯罪を犯したことを疑うに足りる証拠もないのであるから、同人を現行犯人として逮捕し、又は犯罪の容疑者として緊急逮捕することはできなかつたのである。その他本件において、司法警察又は行政警察上万に対し巡査派出所へ同行することを強制することができる理由となる事情は、何も出てこない。ところで万が同行を拒んだに対し、浅海巡査が携帶の拳銃を取り出したことは、前認定の通りであるから、右拳銃は相手方万を威嚇し、同行を強制するために、使用したものと認めるのが相当である。そもそも警察官又は警察吏員が携帶の武器を使用することは、犯人の逮捕若くは逃走の防止、自己若しくは他人に対する防護又は公務執行に対する抵抗の抑止のため、緊急已むを得ない場合に限り、必要の限度において、許されるのである。このことは警察官等職務執行法第七條の規定(この法律は本件事故発生後公布されたものであるが、同じ精神は、本件事故発生当時においても生きていたと考えるべきである。)大正十四年内務省訓令第九号警察官武器使用規程、昭和二十一年一月十四日拳銃使用に関する連合軍最高司令部の覚書によつても、明らかである。万が犯人でなく、同人が巡査派出所に同行を強制されるべきものでもないことは前記の通りであり、且つ同人が浅海巡査に対し危害を加えんとしたことについては、この点に関する証人浅海政男の証言には信を措くことができず、ほかにこれを認めることができる証拠はないのであるから、同巡査の右拳銃の使用は、右の許されたいずれの場合にも当らず、不法といわなければならない。そして、前認定の通り、浅海巡査が携えていた拳銃を取り出し、これを見た万が同巡査ともみ合を始め、同巡査の手から拳銃を取り離そうとして、爭いその格闘中、もみ合う力に押されて同巡査が持つていた拳銃が突然発射し、万の左腹部に命中し、万はこれが原因で死亡するに至つたものであつて、拳銃発射の瞬間をとらえてみると浅海巡査に過失がないようにみえるかもしれないが、この拳銃発射という事故が起つたのは、畢竟、浅海巡査が取り出すべからざる場合に拳銃を取り出しこれを不法に使用し、万をしてやむを得ず、(素手で拳銃に抵抗するとは非常識なことといわねばなるまいが、拳銃を見て驚いた者のとつさの処置であつてみれば、やはり「やむを得ず」ということができよう)これに抵抗するに至らしめたことによるのであるから、拳銃の発射、從つて万の死亡については浅海巡査は過失の責を免れることができないのである。証人安達原達郎の証言(第一、二回)によると、浅草警察署管内特に本件事故発生地附近は、犯罪件数が非常に多い場所であることが認められるが、この事実だけによつて、浅海巡査の過失を否定することができない。
ところで、浅海巡査の本件行爲が警察法に所謂特別区の存する区域における自治体警察の公権力の行使として職務上行われたものであり、被告がその自治体警察を維持し、その費用を負担する公共団体であることは、被告の認めるところであり、警察法第四十二條、第五十一條乃至第五十三條の解釈上もそうであると考えるから被告は国家賠償法により浅海巡査がした右不法行爲にもとずく損害を賠償する責に任ずるわけである。
よつて進んで損害の点について判断を與える。前記のように、万は本件事故発生当時年齢満二十七年八月余の男子であつて、原告等肩書地で農業の傍ら馬車曳業を営んでいたのである。そして証人佐藤ちな子の証言と原告鎌田はるの本人の供述(第一、二回)とによると万は普通健康体で死亡直前農業及び馬車曳業により少くとも一カ月金六千円、一カ年金七万二千円の收入を得ていたが一方生活費として一カ月金三千円、一カ年三万六千円を要していたので、その純收益は少くとも一カ年金三万六千円であつたと、認めることができる。ところで、満二十七年八月の普通健康体の男子の平均余命年数が三十年を超えることは当裁判所に顕著な事実であるから万は本件事故がなかつたならば、なお少くとも三十年間は生きながらえることができたはずであり、そして農業、馬車曳業の如きは、特別の事情のない限り、その間同じ程度に働くことができるものと認めるのが相当であり、從つて右三十年間に得べかりし純收益合計金百八万円を本件事故により失つて、損害を蒙つたものといわなければならない。但し右の金額は三十年後に至るまで毎年三万六千円の純益を積み重ねて達するものであるから、いま一時に損害の賠償を求めるにおいては、「ホフマン」式計算法により年五分の中間利息を差引くべきであり、これによる損害額は金六十四万九千五十五円二十四銭となる。これは万の死亡によつて、同人に生じた損害である。
被告は本件事故については万にもまた過失があるとして過失相殺を主張するが、さきに認定した事実関係のもとにおいて万に過失ありとすることは少し無理であり、全証拠によつてもほかに万の過失を肯定することができる事情は出てこないから、被告の主張は採用することができない。甲第三号証によると、原告哲は万の長男(万死亡当時四歳)原告時子は万の長女(同じく三歳)原告愛子は万の二女(同じく一歳)原告マサ子は万の妻(同じく二十四歳)原告七五郎は万の父(同じく六十二歳)、原告はるのは万の母(同じく五十六歳)であることを認めることができ、原告壽子が本件事故当時胎兒であつた万の三女であることは、弁論の全趣旨により明らかであるから、原告のうち七五郎及びはるのを除くその他の者は、万の死亡により前記万に生じた損害の賠償債権を相続取得したこと明らかであり、從つて相続分に應じ、原告哲、同時子、同愛子、同壽子は各金十万八千百七十五円八十七銭、原告マサ子は金二十一万六千三百五十一円七十四銭の損害賠償債権を取得したわけである。
次に、万の妻子、親である原告等が、万の死亡によつて精神上非常な苦痛を受くべきは当然である。甲第三号証、同第六号証(眞正にできたことに爭いない。)と原告鎌田はるの本人の供述(第一、二回)を合せ考えると、原告家には万原告七五郎のほかには男子はなく、七五郎は農業を営み、田九反畑三反を小作し(もつともその大部分は農業改革により賣渡してもらえることになつている。)住家を所有しているが、働き手の中心である万を失つて耕作にも困難している事実を認めることができる。かような事実と前認定の原告等の年齢その他本件諸般の状況とを合せ考えて、万の死亡により、原告哲、同時子、同愛子、同壽子等が生長するに從つて受ける精神上の苦痛に対する慰藉料額は各金三万円、その余の原告等が蒙つた精神上の苦痛に対する慰藉料額は原告マサ子につき金五万円、原告七五郎、同はるのにつき各金三万円を相当と認める。
されば、被告は、原告哲、同時子、同愛子、同壽子に対し各前記損害額と慰藉料合計金十三万八千百七十五円八十七銭、原告マサ子に対し前記損害額と慰藉料合計金二十六万六千三百五十一円七十四銭、原告七五郎、同はるのに対し各慰藉料金三万円及びそれぞれこれに対する万死亡の翌日である昭和二十三年五月二十八日から完済に至るまで民法所定の年五分の割合の遅延損害金を支拂う義務を負うものといわなければならない。原告等の請求はこの限度において正当であるが、その余は失当である。よつて訴訟費用の負担について民事訴訟法第八十九條、第九十二條を仮執行の宣言について同法第百九十六條を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判官 新村義廣、新見俊介 新村宏一)